「定期券」の持つ意味。

で、今日は単なる定期診察だけでじゃなくていろいろお金入れたり出したり、明日からの通勤に備えて買わなきゃいけない物を買ったりして、あっちこっちバスで移動しながらやっぱりヒーハーヒーハーいう有様だったのだが。
その中で久々に買った物、そして買いたくない物がある。
バスと電車の定期券。バスは3ヶ月、電車の方は6ヶ月。
もちろんそれは今まで1年以上仮ニート生活をしていたのだから久々といえば久々なのだが、そういう意味を外してもこんなに長期間の定期券を買うのはサラリーマン生活を始めてから十数年おそらく初めてに近いのである。
じゃぁそれまではどうしてたのさ、というと経済的に保つところはその都度切符を買ったり回数券を買ったり、さすがに経済的にうー、というところは嫌いなピーマンをぐっとこらえて口の中に放り込むがごとく(ちなみにヲイラ自身はピーマン嫌いじゃないですよ(笑))1ヶ月分の定期券を買っていたのだ。
当然ウチの会社からは通勤手当が出るが、バスは3ヶ月分、電車は6ヶ月分の定期券題が3ヶ月なり半年なりに1度出るだけ。だからこれらの交通機関のパス類は月々の給料の中でひねり出していた。そんな訳で通勤手当が出ると「わーいわーい、半年に一遍のミニボーナスや〜」とか喜んでたりしていたものだ。
だが、今の仕事場はバスはともかく電車に関しては鬼のように運賃が高いのでそう言う訳にもいかなくなってしまった。ただでさえビンボだし。
そういう事情もあって6ヶ月の定期券を買うことになった次第である。まぁ、最近はSuicaの場合万が一なくしてもデポジットで再発行してくれるしその辺は割と安心と言えば安心だし。
おっと、本題に戻ろう。なぜヲイラが定期券を嫌うか。
それは実家で読んだ本に引用されている詩の一節にある。
「その時、6ヶ月の定期券というのは6ヶ月先の自分の前売りなのだと気がついた」
という感じだっただろうか。実家に帰れば解るんだけどなー。
この一説を読んでヲイラははっと思った。
そうなんだ。定期券、しかも会社から通勤手当をもらって買う6ヶ月分の定期券は会社に6ヶ月後までの自分を前売りしているようなものなのだと。
昔はそうでもなかったが、今や1ヶ月先の自分すらどうなっているかわからない時代である。今のヲイラのように爆弾抱えて地雷原を突っ走っているかもしれないし、エライ人から肩をぽんぽんと叩かれる事だってあるかもしれない。そしてなによりも自分が6ヶ月先、何事もなかったかのように生きている保証なんて誰もしてくれない。
それなのに1年の半分も会社に「あたしゃ半年後も元気にお仕事してますよー」と胸張ってえへらえへらと言えるノーテンキな気分にどうしてなれようか。
ヲイラ的にはせいぜい1ヶ月、まぁ普通のレベルで大体一週間が良いところだ。
そして何よりも「定期券」という名の道具が、ヲイラは「定期券は自分の魂を会社に売り渡して6ヶ月の労働を行うことを宣言する誓約書みたいなモノなのだ」、その事を如実に示していることが我慢ならなかった。
それ以来、ヲイラは定期券というのが大嫌いになった。
いつも周りからは「6ヶ月にすればお金浮くのに〜」と言われたが、自分としてはどうしても我慢できなかったのだ。
きっとこれを読んで「そんなもん生きていくための割り切りっすよ割り切り。ポリシーなんかにこだわったところで良いことなんかありゃしませんよ」
とほとんどの人が思うだろう。
でも、ヲイラにはヲイラらしく生きていくための大事なポリシーなのだ。
でも、やっぱり経済的にはどうしても今回は割り切らざるを得なかった。
くやしかった。特に今体調が不調なだけにすがれるものには何でもすがらねば生きていけない身体になってしまっているだけになおさらくやしかった。
自分でも不器用だと思うし、バカだなと思う。
でもこの不器用な生き方はきっと棺桶に入るまで変わらないと思うし、この不器用さがあったからこそ今までこけつまろびつも生きてこられたのだと思う。
うん。そんな気がする。
さて、明日は会社に出られるかなぁ・・・とか書いてるうちにマシンが1台だめぽになったゲ。DVDドライブを認識しないや。まぁ、ウチのマシンの中では一番古いマシンだしそろそろ限界かな。まぁ、ちょうどマシンの中身を入れ替えようと思っていたところだし・・・って、PCってこういうのにすごく敏感だよな。入れ替えようとすると自分から壊れていくから。
・・・まぁCMOSクリアでもすればいいんだろうけどめどいからなぁ。どうすべ。